映画『関ヶ原』でも話題、謎に包まれた戦国の猛将・島左近
歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第22回 ~島左近~
続いて、通変星、十二運星を用いて、性格を鑑定していく。まずは、通変星を円グラフを用いてわかりやすく表す。
知性…様々な分野の知識が豊富で、何かを学ぶことに喜びを感じる。頭の回転が速く、物事を論理的に捉えることが上手
行動力…頭で考えるよりも行動で結果を出す。未知の分野に挑戦する意欲が強く、交渉力や営業力を磨けば成功できる
人脈…さりげない気配りができて誰とでも仲良くなれる。サービス精神が旺盛でコミュニケーション能力も高く人を動かせる。
自立心…他人に依存することなく、自分が信じた道を突き進む強い精神性。リーダーシップを発揮しフリーで活躍できる。
遊び心…楽しいことを企画する等、生活に遊びを取り入れることが自然とできる。芸術面の才能があり、表現力が豊富。
・行動力60%(偏官2つ、正官1つ)
左近の性格は圧倒的な行動力で成っているらしい。島左近といえば、優れた軍略家。その根本は、頭で考えるよりも行動で結果を出そうとする、行動力なのだろうか。殊に命式表に2つ持っている「偏官(へんかん)」は、攻撃的で野性的な性質も持つ。
左近は三成に仕えるまでは不明点が多いが、通説によると、椿井城・西宮城(奈良県)を本拠地とする島家の子として誕生し、筒井順慶の家臣として仕えていた。数々の功績を重ね、信貴山城の戦いでは、松永久秀を倒す大活躍を見せたという。その働きぶりは全国に轟いており、順慶の死後、後を継いだ順慶の甥である定次とそりが合わず、近江にて浪人生活をしていた折には多くの武将から仕官話が持ち上がったという。
最終的に三成のもとで軍略家として活動することになるが、左近の戦での働きぶりは今でも語り継がれている。関ケ原の戦いの前哨戦となった「杭瀬川の戦い」において、兵500を率いて出陣し、東軍相手に勝利を収める。この勢いで東軍に攻め入りたいと考え、夜襲を提案している。この策は三成により却下されてしまうのであるが、溢れんばかりの攻撃性を兼ね備えた左近はいわゆる戦好きだったのだろう。
関ケ原の戦いにおいては、石田軍の先鋒として出陣し、黒田長政隊や田中吉政隊と戦った。小早川秀秋の裏切りにより西軍が劣勢になると、左近はわずかな手勢を率いて戦線に飛び込んだ。その死を恐れずに何度も突撃を繰り返す左近の働きは後に「鬼左近」と呼ばれるほど狂気じみており、黒田隊はその後長い間夢に見て苦しんだとも言われる。
・遊び心30%(傷官)
命式表の中で一番重要な星である主星に、左近は「傷官(しょうかん)」を持っている。傷官は、遊び心の星であるが、皆で派手に飲んだり食べたりして遊ぶのが好きというよりは、美的センスに優れ、博物館に行ったり芸術に没頭したりして遊ぶのが好きなイメージ。左近が芸術に優れていたか否かは定かでないが、若年期に仕えていた筒井順慶は、能、和歌、茶道等の芸術に造詣が深かったそうで、左近もこれらに親しんでいた可能性がある。
また、「傷官」は頭がよく交渉能力に優れた星でもある。左近が次々と繰り出す戦略は、この「傷官」の賜物だろうか。三成の軍略家として活躍した時代、左近は様々な策を三成に提案している。例えば、秀吉の死後、三成が加藤清正、福島正則らに狙われ、家康の調停によって佐和山城へ撤退することになった折、家康を追い詰めて討つ策を提言した。
また、家康が会津の上杉討伐に東上する際、夜襲を進言している。このような奇抜で大胆な案を打ち出すも、これらはことごとく三成によって却下されている。先に述べた関ケ原の合戦の夜襲の進言も含め、左近の奇策は、今三成の立場になって考えると「やっておけばよかったのに」と思うものばかりである。それほど右近は先々を読める頭のキレる武将だったのだろう。
・人脈10%(偏財)
さりげない気配りができて誰とでも仲良くなれる性格。左近は人の懐に入り込むのがうまかったのだろう。先に述べたように、筒井家を出て浪人生活を送る最中、多くの武将から仕官話が持ち上がった。軍略家としてその名が広く知られていたということもあろうが、人から慕われるだけの気遣いができ、コミュニケーションを取るのもうまかったのだろう。左近は、仕官話を全て断っていたという。
そんな折、近江4万石の領主であった石田三成からも仕官の話があり、三成は「自分の棒禄の半分である2万石を与えるので、家臣になってほしい」と告げた。その想いに心打たれ、仕官を決めたという逸話が残っている。三成は官僚、政治家としての才能は抜群なのに対し、軍事面の能力は今ひとつだったとされている。もしかしたら、気遣いができる左近にとって、人に嫌われ生きづらそうにしている三成がかわいそうに思えたのかもしれない。